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  • 執筆者の写真ソプラノ歌手 西尾 薫

大中 恩

調べてみたシリーズ【作曲家 大中 恩】




「声の音楽を書きたい。声を楽器的に扱う人もいますが、僕は言葉を歌う音楽を書きたい」


「僕は、歌で一番大切なものは詩だと思っています。時々先に曲を作ることもありますが、やはり先に詩があって、その詩に感動して作曲家が曲をつくるものだと思うのです。」





いよいよあさってにせまった演奏会のタイトルはずばり

~大中恩&湯山昭をうたう~


大中恩さんは去年なくなったが、現代を生きた作曲家である。



大中恩さん作曲の「サッちゃん」を知らない人、この世にいるでしょうか?


そんな大中さんについて調べてみた。

とりあえず「大中恩」と書いて、おおなか めぐみと読む。「おん」さんではないし、女性でもない。


以後敬称略


【大中 恩】



1924年7月24日 東京生まれ。

父は「椰子の実」を作曲した大中寅二。

母は、父がオルガニスト兼合唱指揮者をしていた教会の、付属幼稚園の教諭であった。

父は流行の歌を歌うことを禁止し、自分の曲か、師である山田耕筰の曲しか歌わせなかった。

だが両親のいる教会の聖歌隊で歌うことは許し、大中は、歌を愛好するようになっていった。


大中は、進路に悩んでいた。

「伝道の道」へ進むべきか、「音楽の道」へ進むべきか。

当時憧れていた聖歌隊の女性に相談したところ、

「音楽を通して神様の心を伝えることが本当の伝道ではないのかしら」と言われ、

音楽の道に進む決心がついた。

父から反対されるのではと思ったが「じゃあ俺が作曲を教えてやる」と指導してくれた。


1942年、当時大中18歳。

晴れて東京音楽学校、現在の東京藝術大学の作曲科に入学。


だが2年半で学徒出陣。海軍の幹部候補生になった。

仲間が特攻隊に志願して、毎日飛び立っていく姿を見送りながら

自分も三回志願したが、選ばれなかった。

1945年。

横浜で終戦を迎え復学、9月に卒業した。


戦死や出征で作曲家が激減した東京。

大中が帰京すると、作曲依頼が相次ぎ、

NHKラジオドラマの音楽の作曲など、次々と仕事が舞い込んだ。




1955年、当時31歳の大中の一つ上の作曲家 中田喜直らに誘われ、

子供のための音楽を作曲する「ろばの会」を結成。

こどもの目線で作曲し、こどもが音楽で感動できるような曲の創作活動に励んだ。

そこで生まれた名曲があの「サッちゃん」だ。

ちなみに「サッちゃん」の作詩 阪田寛夫は大中の従兄弟である。

この「ろばの会」は大中が76歳になる2000年まで続き、言うまでもなく数々の名曲を生んだ。




作曲の他に大中が力を注いでいたのは合唱団での活動である。

終戦翌年から合唱団「P・Fコール」を結成し9年ほどで解散したものの、

団員の希望により、1957年、大中当時33歳。

大中の作品のみを、大中自身の指揮で、全曲暗譜で演奏する混声合唱団

“コールMeg”を主宰した。


コールMegは、30年ほど続き、大中はどの仕事よりも合唱団の練習を優先し、

団員から「遅刻する」と連絡がくれば「走ってこい!」と言うほど厳しかったというが、

一番に会場へはいり椅子を並べ、最後に会場をでるという大中の人柄。


本人も「僕は人望が厚いですから」と笑っていた通り、

団員も、お客も、老若男女、遠方から大中恩のもとへと集まった。


九夜連続演奏会、日本縦断コンサートなど、アマチュア合唱団らしからぬ

ユニークな活動を行ったコールMeg。


創立30周年記念演奏会を終え解散した後も、

団員にまたやってほしいと頼み込まれOBOGを中心とした

混声合唱団「メグめぐコール」を主宰。

また女声合唱団「コールグレース」も主宰し50年近く続けた。


大中作品のみを演奏する合唱団なので、新しい演奏会を開催するためには、

新しい曲を書く必要があった。

こうした合唱団の活動が大中の創作の活力になっていたという。



1989年に紫綬褒章受章。日本童謡大賞など童謡関連の受賞多数。

昨年2018年12月3日。94歳でこの世を去ったが、

大中恩はこれからも世代をこえて愛され、後世に歌い継がれていく作曲家であることに違いない。






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